「暗黙知」から「形式知」へ
普段お互いに遠慮して言えなかったようなひどい真実をぶちまけること。ある日記を読んでいたら目に入ってきた。これだ。
最近特に、新規事業の立ち上げ準備や、業務の引継ぎをしていると思うこと。
前者でいえば、当然新規事業に関して個人複数の持っている知識、問題点などを、文章化しチームとして、情報を共有することは何も変わったことではなく、当たり前のこと。
しかし、裏を見ればそこにも問題点は存在する。
その部分の大きなパーセンテージを占めると思われるのが「暗黙知」である。新規事業の立ち上げなどは、目前に多数の問題点が山済みになっている状態が多い。余裕タラタラな状態はまずないんじゃないか。
そんなときにこの「暗黙知」が働くのではないだろうか。時間がない。議題が山済み。そんな中で「当たり前」と思い込んでいることを発言や、文章化を通さずに、暗黙の了解にしてしまう。
その結果として、後に大きな傷跡やミスで表面化するということ。ここら辺のことが置き去りにされていることが多いんじゃないかと思う。
自分の当たり前という思い込みを「形式知」にして確認することは、たとえ、自分だけが知らない知識であったり、どんな些細なことであっても、責任を背負う上で忘れてはならないことだと思う。
仕事は全てにおいて責任を負うものだというのが私の考え。決して一人で仕事をしているのではなく、他のメンバーや取引先を交えて業務を行う。
ここで、1つ前の記事、「仕事の手本」の中での、「述者が共通して述べていたこと」にリンクしてくるのだが、ネタバレをするとそれはコミュニケーション能力ということ。
自分のいいたいことを言う、他人と情報交換をするという類のことではなく、
相手に自分の意思を十分に伝える、相手からの十分な返答を受けるという両方向、成果を得るというもの。
「取引先には電話でも伝えておきましたし、念のためメールもしておきました。」じゃコミュニケーション力不足です、となってしまう。
ここまでのアプローチ方法も全て含めてコミュニケーション能力と主張する。そう考えると、どんなに些細なことでも、知らないというのはマズイし、恥ずかしがる必要はない。その意図を答えることも、コミュニケーション能力である。
十分にコミュニケーションが取れると、選択の幅も広がり、「機会損失」や「リスクヘッジ」にも対応できるようになる。
この「当たり前」のコミュニケーション能力は技術云々よりも、その姿勢が大事なのではないだろうか。
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